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比嘉 友彦 リカレントビジネス・カレッジトレーナー

個人の中に眠る、人それぞれ固有の資質を育み、開花させる『じぶんヒーロー型起業家育成』のスペシャリスト。

彼のもとで『自分の人生の主人公』として生きることを決め、自分の中に眠るヒーロー性を開花させた人たちは数知れず、今の日本という時代において重要な役割を果たす起業家を生み出すことに、日夜情熱を燃やし続けている。

また、ビジネスパーソンなら誰もが知る世界有数の某ビジネスコミュニティにおいて、ディレクター・コンサルタントとして現場の指揮系統を統括する『九州を代表するトップリーダー』という顔も併せ持っている。

1974年、兵庫県尼崎市生まれ。20歳の時に経験した阪神・淡路大震災から、『自分が生かされた意味』を考えるようになる。

直撃を受けた出生地は瓦礫の山。
『何とかこの街に役立てることは無いのか…』
その想いから、体力に自信のあった若かりし日の自分を解体業者に投げ渡し、震災復興に日夜汗を流し、街の再建・再生に命を燃やした。

気づくと復興のために6年という歳月を捧げ、いつの間にか26歳になっていた。 完全とは言わないまでも、ある程度落ち着いた神戸の街を眺めながら、次第に『自分自身の人生』について考えるようになった。
そんな中、ふとしたきっかけでフレンチレストランに職を得て、いわば『新たな人生』がスタートする。

元々持っていた情熱と貢献の精神、そして努力が実り、次第に責任あるポジションを任せられるようになった時、オーナーから『店舗移譲』の話を受ける。
これを機に起業し、自分の城としてスペインレストランのオーナーとなる。

とは言え、移譲には高額の資金が必要だった。
これと言って蓄えがあったわけではないが、移譲の話が出た時からほのかにくすぶり始めた『自分の店を持つ』という想いは消えず、何とか資金を捻出し、ついに一国一城の主となった。

まるで絵に描いたような成功物語であったが、急激な事業拡大は気づかぬ内に様々な歪を起こし始めていた。

共に店舗運営を行っていた仲間の背信行為、キャッシュフロー問題や現場での指揮系統の乱れ、それに伴う従業員の急激な定着率の悪化など、今まで勢いだけで騙し騙しやって これた問題が一気に吹き出し始め、雪崩のごとく会社は運営の危機に。

業績も悪化の一途を辿り、あっという間に廃業を余儀なくされた。

運営する8店舗の頂点に君臨し、一見華やかに見えるその栄華の足元は、浸る間もないほどの短い時間で崩れ去った。
残ったものは多額の借金と、自分の力不足を知らしめるような現実だけ。

数ヶ月はただただ苦しい日々が続き、もうこの先、何の希望も無いかのように思えた。
死を望んだ瞬間もあった。

しかしあの震災のことを思い出すと、軽々しく死のうと思うことなんて、到底できはしなかった。

『戦ってやる!命ある限り!!』

そんなある日、ある男との出会いにより、再起のきっかけを得る。
その男のもとでビジネスを学び直し、手ほどきを受け、わずか数ヶ月という短期間で再起に成功し、『人の中に眠るヒーローを覚醒させる』というミッションに出会う。

更に自身の経験から様々なものを取り込み、アップグレードする中で、ついに自分自身の『ヒーロー覚醒メソッド』を完成させ、『新たな比嘉友彦』として世に羽ばたくことになる。 Change the way of achieving the goals of life
個人の中に眠る、人それぞれ固有の資質を育み、開花させ、自分の中に眠るヒーロー性を開花させる。

この熱い男の有り余るほどの情熱は、今、全てその一点だけに注がれている。

権藤 武左志 リカレントビジネス・カレッジトレーナー

現在、私は『熱中人生 ビルドアップトレーナー』として、ビジネスに、仕事に、『まるであの頃熱中していた部活のように打ち込みたい!』と願う方々のサポートに携わらせていただいています。

具体的には
・今の仕事にそれほど熱意を感じられない
・起業してみたものの、思ったような成果を得られていない
・毎日何となく働いているだけの日々に、自分らしさを感じない

という方々に、部活で燃えていた日々のような熱意を取り戻し、そのエネルギーで圧倒的な成果を出す!
というお手伝いをさせていただいています。

これまで1000人以上の方のサポートを行い、企業、経営者様へのサポートを行ってきました。
また個人のクライアントさんには、
『自分の情熱全てを注ぎ込み、圧倒的な成果を出す!』
という日々を送るサポートで、短期間で一気に現実的な成果(営業成績アップ、売上アップ、評価アップなど)を手にしていただいています。

私、権藤 武左志は、1985年6月に福岡県の田舎で生まれました。
小学校1年生からラグビーを初め、大学4年生まで、僕の人生はラグビー一色でした。
ラグビーを始めたきっかけは、ほんの些細な出来事から。

大好きな父親から
『ラグビーをやるならカブトムシを買ってやろう!』と
言われたのがきっかけでした。

とはいえ、少年だった私が欲しいものは、あくまでカブトムシでしたから、はじめたばかりの頃は、ラグビーがあまり好きではありませんでした。

もともと気が弱く、身体も小さかったので、あんなに激しくぶつかり合うスポーツは、恐怖以外の何物でもなかったのです。 しかし続けていくうちに、一緒に夢中になれる仲間ができ、また、練習すればするほど上手くなっていく自分自身に、いつしか私はラグビーが大好きになっていました。

まだ子供時代とはいえ、僕は、人生で初めて『本気になれるもの』と出会えたのです! 中学では九州代表メンバーに選出され、全国制覇を成し遂げ、ベストプレイヤーに選ばれました。

高校でも同じメンバーで全国制覇を目指そうと誓い合ったのですが、まさかの受験失敗…

24時間、ずっとラグビーのことしか考えていなかったので、 あまりの学力の低さに、私だけ別の高校に行く羽目になったのです(泣) しかし滑り止めで受けた高校には、鳴り物入りで入学することができました。

全国制覇経験者、しかもベストプレイヤー獲得。
高校に入学した瞬間から、周りからチヤホヤされ、入部、即レギュラー。

正直言うと、当時の私はかなりの天狗でした。
チームの勝利なんてどうでもよくて、ジュニア代表に選ばれて、中学時代の仲間達と一緒にプレーすることしか考えていませんでした。
しかしある試合で、僕の伸び切った鼻はボッキリと音を立ててへし折られてしまうのです。
中学時代はそれでも何とか通用してきたものの、高校に上がると通用しなくなったもの、それは『身体の細さ』でした。

薄々分かっていたのですが、これまで何とか通用してきてしまったために、目を逸していた自分の弱点のせいによって、自分のチームを敗戦へと導いてしまったのです。 ショックでした。

もう目を逸らせない現実を見せつけられてしまった私は、やっとここから本気で肉体改造に取り組んでいきました。

食べることは、本当にきつかった。
苦しくて、泣きながらご飯を食べました。
何度も食べた後にトイレで吐いては、また食べ物を喉の奥にねじ込む。
苦しい…

それでも2度とあんな思いを、『自分の弱さが原因でチームを負けさせる』というような悔しい思いをしたくない一心で、食べ続けました。
気づけば身体だけじゃなくて、精神も変わっていました。

あんなにどうでも良かったチームは、いつのまにかとても大切なチームメイトに。
そして『中学時代のメンバーと一緒に試合をしたい』なんて気持ちはどこかに行ってしまい、『今のチームメイトで、中学時代の奴らに勝つんだ!』という気持ちに変わっていたのです。

高校3年になってからは、キャプテンとして多くの経験をさせてもらいました。
この中学~高校時代のラグビー人生、この青春を燃やし尽くした部活人生は、私にとって、とても価値ある時間であり、『一生こんなに夢中になって、人生を過ごしたい!』と心から思っていました。

そして、人生というものは、そういうものなんだ!と、その当時は疑ってさえいませんでした。

大学に入学してからも、ラグビーは続けました。
しかし大学時代のラグビー人生は、それまでとは大きく違い、私の人生を大きく変えるものになりました。 大学ではとにかく怪我に悩まされ、満足にプレーできませんでした。

それでも大好きなラグビーを続けるためにリハビリを続け、レギュラーが見えるところまで、あと一歩で手が届くところまで、何とか頑張りきりました!

しかし3年の夏合宿、セレクションマッチでまたもや怪我。
反対側に曲がった肘を見た時、痛みは全く感じませんでした。

私が感じたのは、ただの虚しさ…

『俺、今まで何やってきたんだろう?吐きながら飯を食って、必死にリハビリに耐え続けて、結果これかぁ。なんだかピエロみたいだな…』
私の大学ラグビー生活は、これで終わりました。

ラクビーを辞めてからの大学生活は、実はほとんど記憶にありません。
『これから私は、どうしたら良いのか?』
当時の私には、これが全くわからなくなってました。

『私の人生からラクビーを引いたら一体何が残るんだろう?』
何もない…

就職してからも、それなりに頑張って働きました。
どんな条件でも状況でも、諦めずに前を向いて頑張るのは身体に染み付いた性ですから、それなりに成果も挙げたし評価も得ました。

しかし、何かが足りない…
何が足りないのか分からないまま、その渇望を埋めるために、目の前のことを必死にこなす毎日。
社会人になり、結婚し、子供もでき、一見すると、何も問題がないように見える毎日。

でも…何かが足りない…
そんなタイミングで勤めていた会社が傾き、無休で働いていたにも関わらず、どんどんと給与は削られていく。
八方塞がり。まさに人生のどん底。
『このままではまずい!』と思い、起業しようと考えました。
手っ取り早く稼げる方法を探し、ネットビジネスというものを知ります。

そして30万円を使って、情報商材と言われるものを購入し、半年間、寝ずに頑張った結果、一円も稼ぐことはできませんでした。
虚しさと息苦しさと閉塞感。

正直『全てを捨ててしまいたい』とさえ、この時には思いました。
『ラグビーをやってた頃、辛くて苦しいことの方が多かったけど、心から幸せだったな…』

何をしても上手く行かない状況で、私は現実逃避するように、『ラグビーに熱中していた頃の思い出』をなぞるようになりました。

『あんなに一生懸命、本気を出して、熱中することができたら、俺の人生は幸せなんだろうなぁ…』
そんな風に思うようになりました。

そしてふと思ったのです。
『俺、大学でラグビーを諦めたあの瞬間から、本気になることから逃げているんじゃないのか!?』
『本気になること。夢中になること…』

なぜかそういう言葉が、頭から離れなくなりました。
そして徐々にですが、本当に徐々にですが、なぜだか理由は分かりませんが、あの頃のように『もう一度、本気なって、熱中できる何かを見つけてやろう!』と思えるようになってきたのです。

とは言え、何をすればいいのか分からなかったのですが、ひとまず目の前にある『仕事』に『夢中になってみよう』と決めたのでした。
そしてこの『決める』ということは、驚くべきパワーを私にもたらしました。
今までも一生懸命仕事に打ち込んで来たつもりでしたが、それとは全く別の『夢中さのエネルギー』が溢れてくるのです!

私は仕事に『苦』を感じることがなくなってきました。
もちろん物理的に大変なこともあるし、まいることもあるのですが、あのラグビーに夢中だった頃のように、そこに『充実感』と『自分を全て使い切っている』という清々しさがあるのです。

それに伴い、仕事での成果もうなぎのぼりに上がってきました!
今まで何年も超えられなかった壁をわずか数ヶ月で超えてしまったり、もう、なんというか、とにかく『圧倒的なパフォーマンス』を発揮できている自分が分かるのです!

『これだ!!!』
私は何か、『人生の秘技』に触れた感じがしました。
そして熱中すること、夢中になることのエネルギーとパワーをとてつもないほど思い知りました。
エネルギーが有り余っている私は、自分のことだけでは飽き足らず、知人や友人に『仕事に、人生に夢中になるサポート』をするようになりました。

するとどうでしょう!
その人たちの人生が一気に変わっていくではないですか!!
凄い!感動だ!素晴らしい!!
私は『人を成功させること』にハマり始めました。

僕にとって関わった人が結果を出してくれた時の喜びは、ラグビーの試合で『みんなで勝利した時の喜び』に、とても似ているのです。
そして何より、目の前の人が活き活きとして仕事に熱中し、充実感を得ている姿は僕にとって最高のご褒美になっていったのです!

『俺の仕事は、こういうことなんだ!』
私の中に、確信が生まれました。
そこから私は、『熱中人生 ビルドアップトレーナー』として、生きていこうと決めたのです。

私は『じぶんの力で稼ぐ方法』を本気で全力でやり切るだけで道が大きく広がりました。
私と同じように『稼ぎたくても稼げない』と悩んでいたり、一生懸命生きているのに充実感を感じられない人のサポートをすることが僕の使命だと確信しています。

そしてこの稼ぎ方を通して、1人でも多くの人の可能性の大きさに気付いてもらいたいと思っています。

そして私には夢があります。
日本に稼げるスポーツビジネスを確立させるのです。
現役アスリート、引退したアスリートが、人生をかけて磨いてきた自分の強みをスポーツの世界だけでなく、ビジネスの世界でも活かせるようにして、アスリート達のセカンドライフをサポートします。

そうすることで、現役アスリート達は、先の心配がなくなりよりスポーツに専念できる。

そうすることで見る側ももっと興奮した楽しい試合を観戦できるようになり見る側も楽しくなる。

そしてその姿に夢を見る可能性に満ちた子供達が増える。
そしてその子供を応援する親も安心して子供を応援できる。

もっと夢にチャレンジできる環境が出来上がることで、世の中がもっと楽しくてワクワクすると確信しています。

想像してみてください。
簡単には手に入らない試合のチケット。
試合会場入り口は観客で長蛇の列。
試合前に花火が上がり、パフォーマー達が歌って、踊って試合前の会場を盛り上げる。

そして会場が一気に静まり返った時にスタジアムの暗い入り口から並んで出てくる、英気に溢れたヒーロー達。

その時のスポーツはもっとエキサイティングで、見応えのある最高のパフォーマンスショーになっています。

選手、企業、ファンが互いにwin-winになる世界の実現に向けてこれからも活動し続けていきます。

中村 香月 スターキャリア構築プログラム トレーナー

今後の日本を担って行く20代の若者向けに「新時代のキャリア構築」を軸とした新規講座を立ち上げ、そのトレーナーを務めている。

キャリア変革コンサルタントとして一人一人の才能を開花させ、本当にやりたかった事を明確にし、その人のキャリアを最高の ”スターキャリア” へと昇華させるスペシャリスト。

彼の元で独立・転職を果たし、自分の中に眠っていた才能を発揮していったクライアントは数知れず。

1993年大阪府生まれ

幼少期より自分の持つクリエイティブ力を武器にたくさんのイベント企画をしたり率先して人前に立ち、リーダーシップを発揮する人生を送っていた。

進学した大学院では天文学の研究に没頭した結果、 『奨学金奨励賞』を受賞し、 国から100万円が譲渡されるなどの 功績が称えられ、大手一流企業に システムエンジニアとして採用された。

順風満帆な いわゆる「勝ち組の人生」を 送るかのように思えた彼だったが 入社した大企業、 フタを開けてみると、 会社では自分の個性を活かすどころか 誰にでもできる仕事や、 やりがいのない仕事を任されたり、 自分の持前のアイデアを率先して出すも、
「新卒のおまえの意見が通ると思うな」
「君の勉強になって良かったね」
などと、突き返され、 自分が憧れていた社会人生活とのギャップを 感じながら退屈な日々を送るようになる。

会社の仕事がつまらないからと 余暇で友人たちと スマホアプリの開発や Youtubeを始めてみたが、 ことごとく失敗。

仲間だと思っていた 友人たちとも自分の未熟さからがゆえに 次第に息が合わなくなっていった。

同時期に、 大切にしていた当時の彼女が「鬱病」になり、 両親もコロナの影響による経済不安定で過労で倒れる。

職場では相変わらず やりがいや楽しみを見出せないどころか いわゆるモラハラを受けつづけ、 ついには彼自身も ” 精神障害” を患い 『休職』を余儀なくされた。

全てのよりどころを失ってしまった彼は 完全に一人、社会から孤立することとなった。

人生の全てに生きがいをなくした彼は、 誰のために、なんのために 生きているのかがわからなくなり、 かつての輝きを完全に失っていった。

もうこのまま死んでしまった方が 楽なのではないかと、 ついには会社の帰り道にある 大きな橋の手すりに手をかけたほどだった。

そんな状況に陥っていた彼を救ったのは、 とあるセミナーだった。

セミナー内で受けた 『自分を幸せにできない奴が、 他人を幸せにできるはずがない』 という言葉に胸を打たれ、 まずは自分自身が幸せになることに 全力を注ぐと固く決意し、 自分のために自分でお金を稼ぐ力を付け始める。

家族のためや愛する人のため、友人のためなどの考えは一切捨て、自分自身のために全力で生きると決めてやり切った結果、彼は1年後キャリアコンサルタントとして独立し、たった2ヶ月で172万円の売上をあげる事に成功する。
お金を得ただけではなく、これまで培ってきた事は全て無駄ではなかったことに気づいた彼は、自分の才能や長所を余すことなく発揮し、次第に当時の輝きを取り戻していった。

彼は言う。

『全ての人々が自分の本当の才能に気づき、人生の使命を全うできれば、これほど楽しい世界は存在しない』と。

『一人一人が、自身の才能に目覚め、人生の使命を生きる事で、人々が活き活きとした圧倒的主体性の社会を創造すること』

その実現のために、今日も彼は、誰かの 才能を目覚めさせている。

今井 早紀 リカレントビジネス・カレッジトレーナー

シングルマザーや離婚したくてもできない女性を中心に、「ママ」としてだけではなく、1人の女性として生きる喜びを目醒めさせるスペシャリスト。 彼女の元で『自分の才能や能力』に目醒め、夢に喰らいついて突き進む人は数知れず。

自らのミッションを
”自分の世界を成長させ、踏み出す勇気を創り出すことである”

と定め、
一人一人が自分の才能や能力に目醒め、生きる喜びが止まらない世界にするために魂を燃やしている。

1981年、神奈川県横浜市生まれ。
3姉妹の長女として育ち、責任感と正義感に溢れる子供だった。
運動会の選手宣誓や学級委員、文化祭委員、リーダー等々、積極的に立候補し、幼少の頃から目立ちたがり屋で、活躍の場を自ら作り、リーダーシップを発揮していた。

そんな積極性に溢れる彼女に、突然の絶望が襲った。
青春時代真っ只中の19歳。
突然パニック発作に襲われ、パニック障害と診断されたのだった。

生きたまま棺桶に入れられ埋められているような、逃げ場のない発作に苦しみ、そしてその苦しみを誰にも理解してもらえないことに悲しみ、発作の苦しみと孤独の苦しみを抱えながら、友人たちが青春時代を楽しんでいる中、1年半の引きこもり生活を送ることになる。

自信や積極性を失い、人前に出ることもできなくなった。

もう昔のように人前で活躍できることはない。
そう思っていた。

パニック障害を理解し支えてくれる人がいなかったこともあり、正社員として社会復帰するまでに11年間かかった。

そこで出会った会社の先輩と結婚。
しかし2年後、旦那の浮気が発覚。
浮気発覚から約1年半無視される生活が続いた。

小さい子供を抱え、さらにパニック障害も持っていたため、経済的にも精神的にも旦那に依存していた。 自分が我慢すれば、みんな幸せになれる。
そう信じ、我慢する道を進み続けたが、体調を崩し、何度も救急車で運ばれた。

旦那へのストレスを子供や犬へ当たるようになり、我慢の限界にきた。

そんな彼女が選んだ道は、
「自立の道」
彼女は自分の人生を諦めきれなかった。

昔みたいに自分の力を思いっきり出せるようになったら、自分の人生を変えることができるのではないか。と。

そこで出会ったのが、リカレントビジネス・カレッジだった。

・私の本当の幸せってなんだろう
・自分の全力ってどんなものなんだろう
・もし、自分の力を思いっきり使えるようになったら、どんな自分でどんな人生を送ることができるんだろう。

そこで自分自身と向き合い、自分を知り、今までの辛く苦しかった経験も全て自分の力に変えることにより、自分の人生を好転させていった。

彼女は言う
「自分の人生を変えるためには、自分で何かを起こさないといけない」と・・

そして、『一人一人が自分の才能や能力に目醒め、全ての力を思いっきりぶつけながら、瞬きするのも忘れるくらい自分の夢に喰らいついて、生きる喜びが止まらない世界』にするのために今日も彼女は、誰かの人生に関わっている。

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